創立50周年記念誌「街づくりと暮らしの創造企業」へ
36/80

Discussion激動の時代をくぐり抜ける藤野(以下敬称略) 私たちが経理・総務として在籍していた頃は西部ガス興商、いわゆる“ニシコー”と呼ばれていた時代で、ちょうど合併の時期と重なり、売上高が急増して100億円に上っていました。事業環境が多様化するなか、西部ガスでは変化の波に乗り遅れないよう、また「総合生活産業」をめざし、事業展開をしていました。その過程において業務分社化のため、情報システム業務や集金・検針業務、ガス器具販売業務、不動産業務などの別会社が設立され、各社はより一層の事業拡大と成長を図るところでした。ニシコーはそのなかのひとつです。山口 だからこそ、ニシコーが取り組む事業は本体のガス事業を支えるために大事だと感じていました。バブルに向かって日本経済が右肩上がりを続けるなか、子会社によって業績の善し悪しがはっきり出ていて、グループ内で吸収・合併を繰り返し、再編成しながら新会社(㈱パピオ等)を設立していったのです。当時はとにかく、銀行から資金を借り入れるのが大変でしたから、社長はいつも資金繰りを気にされていました。銀行から借り入れるために一行目がだめなら次、次がだめならまたその次……と、社長と一緒に頭を下げて回ったものです。貸し付けを取りつけるために、決算が終わったらどこよりも早く決算資料を持って銀行に伺い、説明していたのが思い出されます。それからしばらくして、ずいぶん借りやすくなったようですね。藤野 この「パピヨン24」ビルが建った頃は一行だけの借り入れだったんです。しかし私が在籍していた頃からは、今までの借り入れをまとめて別の銀行ともお付き合いを始めることになりました。金利の安さだけで選べば開4つの柱を大切に“開発”の精神で困難を乗り越えて「西部ガス興商株式会社」に商号を変更した後は、多岐にわたる事業を展開し、地域とともに着実な成長を遂げていきます。1990年代以降、主に管理部門の立場からそのあゆみを支えてきたOBの方々(山口貞嘉氏・藤野一紀氏・紙谷充昭氏)に当時の話を伺いました。山口 貞嘉Yamaguchi Sadayoshi1961年西部ガス株式会社入社。1990年西部ガス興商株式会社に経理部長として出向。物流部長を兼任したのち、1992年より常勤監査役。1995年取締役に就任し、1996年に退任。立地の優れた千代に、若者が集まる賑わいや楽しみを34

元のページ  ../index.html#36

このブックを見る