創立50周年記念誌「街づくりと暮らしの創造企業」へ
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かない扉だったかもしれません。が、結果的に、その後の新規事業や閉鎖する会社の清算などで、お世話になった。あの時扉を開いたからこそ長いお付き合いになったと感じています。紙谷 私が在籍していた頃は銀行の方が毎日のようにやってきて、「借りてください」という時代でした。西部ガスおよび西部ガスグループに貸すビルを建てるための資金を借り入れていて、確か300億円を超えるほどだったと思います。バブルの時期には、売上は90億円近くでしたが、金利の負担が大きく、経常利益は数億円ほどでした。その後は、金利が下がって一定の利益が出るようになりました。その頃、ニシコーの売上で、100億円のうち60%はグループ内からのものでした。そんなある日、渡邉さん(32・33ページ)から「紙谷くん、このビル買いたいね」と、天神のど真ん中にある「天神NKビル」購入の相談があったのです。「今後、天神のメイン通りで売り物件は出ないだろうし、このビルを所有すればステイタス感もある。さらにはグループ外売上の拡大にもつながる」と考え、資金面を考慮したうえで賛同しました。決断したあの時は、本当に、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでしたね。未来へ向けて-社員の皆さんへ藤野 「西部ガス都市開発」と名称も変わっていますから、不動産業だけに頼らず、新たな事業を開発してほしい。今後も業務拡大を図っていくためには、何らかの犠牲は覚悟しなければなりません。挑戦にあたっては、皆さまの英知をぶつけてください。山口 たとえば千代町を、通勤者や居住者、旅行者などの若者が集まる街にする、というのも良いと思います。久しぶりにここに来てみると、県庁エリアとは賑やかさが違って寂しくなりました。西新や六本松に続く、賑わいや楽しみをつくっていくといいのではないでしょうか。スケート場を一時休館する残念なニュースもありましたが、あらためて、活気が生まれる施設をつくり、良い街づくりが実現できればと願っています。藤野 私たちはこれまで、「地域貢献」を旨とし、千代文化スポーツセンターをはじめ、文化やスポーツも守ってきました。そうしたなか、昨今のコロナ禍により、私たちは生活様式の変化を余儀なくさせられ、この影響が業績にも大きく及んでいると思われますが、決してこの状況にくじけることなく、皆でこの難局を乗り越えてください。一日も早く以前のような商いができる日が戻ってくるように祈っております。 藤野 一紀Fujino Kazunori1964年西部ガス株式会社入社。1995年西部ガス興商株式会社に理事総務部長兼経理部長として出向。1996年から取締役、常務取締役、専務取締役、常勤監査役を歴任し、2009年退任。紙谷 充昭Kamiya Mitsuaki1974年西部ガス株式会社入社。1992年西部ガス興商株式会社に経理部課長として出向。管理部次長、企画・経理部長を歴任し、2009年非常勤監査役に就任。2015年退任。不動産、物流、商事、スポーツ・健康。4つの柱のもとナンバーワン子会社に生活様式の変化に合わせつつ団結して乗り越えましょう※撮影時のみマスクをはずしています。35

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